艦長の言葉 1

民族植物学者でビジョナリーの後テレンスマッケナが時間と人間の意識に関する著しく明快な理論を展開した。この考えは宇宙一式美術館を作る上で大きなインスピレーションになった。
人間は歴史の時間の中にいて、徐々に加速するペースで前に進んでいる。時間の中を通過すると同時に全てがもっと複雑になって行き、それを先立つものを構築している。マッケナの想定によると人間は徐々にあまり遠くない未来の地点に向かっている。その先には彼が読んだ「時間の終わりにある超越的オブジェ」、あるいは「オメガ地点」がある。これはすべての事の「そこ」での絶対的な経験であって、哲学や神秘収容で長く言及されてきた領域である。この「時間の終わりにある超越的オブジェ」から我々が生きている歴史的時間に向けて光のちらつきが届いていて、まるで複雑な格子状の壁を照らして輝く日光のように。長い歴史の中でこの光のちらつきに築き、反応してきた人たちが多くいる:哲学者、神秘主義者、アーチストや敏感な人。時間を通した人間の旅は、徐々に大きなこの「時間の終わりにある超越的オブジェ」の地図を形成する旅でもある。この深く詩的で素晴らしいイメージは、私がこの美術館を作る上で非常に大事である。アートの領域の中で「時間の終わりにある超越的オブジェ」が放出された光が強く経験やオブジェや絵で表装されてきた。宇宙一式美術館は謙虚な態度でこの時間の果てに対する憧れを表す作品やアーチファクトの地図である:聖なるウパニシャッドではこのようにかかれている「私がサットチットアナンダ、永遠で、純粋で、悟りである」。

艦長の言葉 2
宇宙意識美術館の開催にあたって、まず最初に特筆したいことは、人間は何千年も前から強烈な変性意識体験をしてきたということです。それは人間であることの根本的な要素なのです。1901年にアメリカの心理学者であるリチャード・モーリスバックが「宇宙意識」という本を著しました。これは、変性意識体験をあらゆる文化や時代を横断してまとめた初めての試みでした。この本の中には宗教者や神秘主義者だけでなく、アーティストや一般の人々の体験談も書かれています。バックはこうした人々の体験を「宇宙意識」と呼び、これらの経験が個人の狭い視点を押し広げ、人間の存在がより広い宇宙や複雑な関係性の領域に繋がっていることを示すものとして描いています。この美術館の企画は、人類が長い歴史の中でそのような体験を語るために表象してきた作品やオブジェを集めて展示するささやかな試みです。その意図は、強烈な個人的体験としての宇宙意識体験と、共同体(伝統的な宗教団体である修道院やサンガ、あるいは世俗的なアートワールドや実験的なコミュニティのような新たな共同体も含む)の必要性とのあいだにある緊張関係にあります。カール・ユングの集合的無意識の概念は、このことを理解するための重要な心理学的枠組を提供してくれるかもしれません。

鑑賞者のみなさんが、さまざまな展示物を実際に使って瞑想できるようにしつらえています。開館中は、厳選された音楽も流します。

どうぞここで「サレンダー」――自己を作品や美術館に「明け渡し」てみてください。

peter mcdonald, untitled, acrylic on canvas, 2019, museum collection

宇宙意識の主な特徴は、その名前が示す通り、宇宙、つまり、森羅万象の生命と秩序に関する意識です。・・・宇宙意識を持つことによって、それだけでその人を存在の新たな領域へ連れて行き、ほとんど新しい種の一員にしてしまうような知的な光明あるいは啓示が起こります。これに、道徳的な高揚、形容しがたい上昇の感覚、幸福感と喜び、倫理観の高まりといった要素が加わります。・・・宇宙意識に関する基本的な事実が、その名前によって示唆されています。その事実とは、宇宙を意識する意識、東洋で「ブラフマンの輝き」と呼ばれるものであり、ダンテの言葉を借りれば、人間を神に変容させられるものであります。このことについて多くのことを語っているホイットマンは、あるところで、それについて、「例えようもない光――まさに光そのものを発する、類いまれな、表現しようのない――あらゆる表象、表現、言語を超えた――光である」と述べています。
— リチャード・モーリス・バック『宇宙意識』尾本憲昭訳 (ナチュラル・スピリット)1901
神秘的洞察は、神秘のヴェールが脱がされたという感じ、かくれていた知恵が今や突然疑いを超越して確実になったという感じ、から始まる。確実性と啓示という感じが先ず到来し、なんらかの確定した信念を得るのはその後である。・・・
悟りの瞬間の最初の最も直接的な結果は、幻滅の沼地へみちびく盲目の案内人とみなされているところの、感官、推理、および分析に対して、啓示、洞察あるいは直観と呼ばれる認識方法が可能である、という信念を抱くことである。この信念と直接に結びついているのが、実在という概念であって、この実在は現象の世界の背後にあり、それと全く異なるものでなければならない。実在は、時には崇拝といってもよいほどの、嘆賞の念をもって仰ぎ見られる。実在は、感官の見せかけのために薄いヴェールで覆いかくされているが、それを感受する精神を持つ者のためには、<人間>の外見上の愚行や邪悪を通してさえも、栄光の中に輝き出す用意をして、いつでもどこにでも、すぐ手の遠く所に所在している、と感じられる。詩人、画家および愛する者は、その栄光を求める人々である。彼らの追い求めている忘れえぬ美は、実在という太陽の微かなる反射光である。しかし神秘家は超自然的啓示という完全な陽光の中に住んでいて、他の者が求めているものを、彼は認識しており、その認識にくらべれば他のあらゆる認識は無知にひとしい
— バートランド・ラッセル『神秘と論理』江森巳之助訳 みすず書房, 1914
我々は、ある種不可思議な形式や型や、直観によってのみ感知できる思考、多様な意味を孕んだ言葉、純粋な象徴としての価値を持つ表現などを求めるべきである。なぜならそれらは、いまだ知られざるものの最良の表現方法だからである。それらは目に見えない波打ち際に向かって投げかけられた橋なのである
— 『カール・ユングと創造的なプロセス』サイコロジカル・アンド・ヴィジョナリー・モード
細部は純粋な可視性の特権的な例であり続ける。なぜなら、それは明らかに「記号」(ロラン・バルトの言う)がイメージから除かれたときに残る何かであるからだ。モダニズムに一貫してくり返されるロジックに従うならば、もし意味をなすとされるものを思考によって取り除けば、我々に残されるのは「純粋な」色、「純粋な」映像、「純粋な」形 ――線、輪郭、印象――であり、それらは可視性の超越的な基盤そのものにほかならないと思われるからである。それは強力な夢であり、当分のあいだ我々が醒めそうもない夢なのである
— ジェームズ・エルキンス 『緻密な読みの不可能性について』(英語版未出版)2007
サイケデリック社会主義とブルジョワ・リベラリズムの「自由」の概念とのあいだは、決定的な違いがある。ブルジョワ・リベラリズムにとって、「自由」とは所有する権利と密接に関わっている。「自由」は個人の「持ち物」であり、個人の所有権から切り離すことはできない。公共性や共同体は抑圧でしかないのである。何故ならば個人の「自由」の妨げになるからだ。サイケデリック社会主義は、これまでの「自由」とは全く異なる視点に立つ。「自由」は関係性の中においてはじめて実践され、実現される。身体と身体とのあいだに「自由」は生まれるのである。共同体の創造の場を実現することが、サイケデリック社会主義の起点である。例えば学校や、ラボ、ダンスフロア、アシュラム、ワークショップ、運動広場などのような場所で、資本主義がどれだけ弊害になるかということを認識しながら共同体の創造力を生み出していくしかないだろう
— ジェレミー・ギルバート『サイケデリック社会主義』2017年
自己のテクノロジー」――これは例えば自己を変容するテクニックであるヨガや瞑想やサイケデリック体験を指す――は、ミシェル・フーコーの言葉を援用するならば、固有の政治的意味を持たない。政治的な視点からの問題提議は:このような自己変容のテクニックが、どのようにして人々の政治的意識を高めることができるのか、またどのようにして資本主義的文化の確立された前提に挑み、個人主義を乗り越えて、可能性と創造性に満ちた無数の「コレクティブ」を実現することができるのか、ということである
— ジェレミー・ギルバート『サイケデリック社会主義』2017年
ここで一つ興味深い共通点がある。神秘主義やヨガや哲学の文献で登場する「高められた(高次の)意識」という概念と、1970年代のラディカルな政治運動に見られる「高められた政治的意識」との重なりである。双方とも、その歴史的な源流を遡ることができる。「高められた政治的意識」という概念は、マルクスの階級意識に根差している。ここでは労働者の共同体づくりや連帯感が、個人の欲望や文化的背景の相違よりも大切なのである。神秘主義においての「高められた――これには高次の、普遍的な、宇宙的なといった呼び方がある――意識」は、自己とは錯覚であるというヒンドゥー教や仏教の考え方に根差している。この錯覚からの解放――自己とは、広大な宇宙の偶発的な要素でしかないという気づき――は「悟り」と呼ばれることも多いが、サンスクリット語の語源は「目覚めた」という意味に近い。興味深いことに、ラディカルな政治運動の中でも「高められた政治的意識」をスラング的に「目覚めた」と表現するのである
— ジェレミー・ギルバート『サイケデリック社会主義』2017年
『風景論』(初版は元の時代の初期に遡る)には、画家は筆を手に取る前に、着物を脱ぎ、足を組んで座らなければならないと説かれているが、我々は今や、このことをそれほど驚かずに受け取ることができるであろう。これの意味するのはこういうことである。画家は心の中に平穏と快活さを養わなければならない。着想は静謐で調和に充ち、できうるかぎり正直で誠実であるべきである。そうすれば人間の喜びや悲しみや、ほかのすべての多様な側面が、直接的であれ、間接的であれ、あるいは曲げられたり、傾いたりしていても、彼の心の内に自然と現れ、筆からおのずと生み出されるのである。

画家は、そこで自発的に儀式の洗礼を受ける。彼は宇宙の力を動かしていると思われる法則の秘密を見出そうとするのである。彼は流れる水や山々や雲を超えるために、高く登っていかなければならない。彼は美しいモチーフの上へと舞い上がり、彼の構図の主題を支配しなければならない。瞑想によって、彼は枯れた葉を引き抜く秘密の泉を発見し、雪崩を解き放ち、さすらいの魂を解放するのである
— 『中国の神秘主義と現代絵画』1936