フェンバーガー・ハウス「宇宙意識美術館展」鑑賞記 By マリコム

 

マリコム

 

序章
これはぼくが勝手にそうなんじゃないかと思っているだけなんだけど、最近、ネット上で、「○○警備」とか「○○警察」とかいう言い回しを見かけるようになった。用法は、たとえば長時間ツイッターのタイムラインを眺めていることを「TL警備」と言ったり、日常的な振る舞いについてとやかく言う誰かのことを「文化警察」と呼んだりと、まあそんな具合だ。昔、イギリスの作家でジョージ・オーウェルという人がいて、その人の小説に「思想警察」という、人々の頭のなかを取り締まる秘密警察みたいなやつらが出てきたんだけど、それに近いニュアンスがあるのかもしれない。いずれにせよ、それが正式な出典っていうわけでもないだろうし、ちょっとした言葉遊びのひとつだと思ってくれればいい。
でもね、ただの遊びでも、ぼくはここにほの暗い何かを感じとってしまうんだ。炎上、炎上、ブロック、ブロック、炎上、謝罪、ブロック、謝罪――この数年間で何度似たような騒ぎを見てきただろうか?正直なところ、ぼくはもう、こうした揉め事にはうんざりしているし、巻き込まれたくもないよ。
「わたしは何も悪いことをしていない」? ばかだなあ、そんなことを大きな声で言うやつは、あらゆるSNSをネットストーキングされて、水戸黄門が印籠を掲げるみたいに「これでもか!」と過去の小さな失態の数々を暴かれては謝罪させられるのがオチじゃないか。「わたしは悪いことをしました」? それこそばか正直というものだ。内容によってはポリティカリー・コレクトネスに抵触して、左寄りの市民運動家たちからの反感を買うか、あるいは彼らから同情を誘うことに成功しても、今度はその反動で意地汚いネトウヨの餌食になるに決まってる。
しーっ、静かに。やつらに見つかったら、たちまち燃え上ってしまうよ。なるべく大人しくして過ごすんだ。間違っても、きみが今、やつらにとって「良からぬこと」を考えているなんてバレないように、素知らぬ顔で挨拶だけを交わすこと。秘密はきみだけのものだ。あの三億円事件だって、時効が成立したっていうのに、未だに1円も使われていないらしいじゃないか。ぼくらはその1円を毎日貯金しているんだ。1年で365円。2年で730円。3年で……ええと、ぼくが計算は苦手だってことも秘密にしてくれよな。とにかく、そうしていくうちに、貯金箱がすっかり溢れそうになったら――つまり、ずっと秘密を抱え込むことに疲れたら、長野県に行くといい。ぼくがとっておきの場所を教えてあげるから。
 
 
1.
フェンバーガー・ハウスは長野県佐久市に位置する私設美術館である。AIT(Arts Initiative Tokyo)副ディレクターであるロジャー・マクドナルドによって運営されており、AITが美術教育を受けていない人々でも視覚文化を考えることのできる場作りを広くおこなっているその性質と同様に、フェンバーガー・ハウスも強固な建築をしたいわゆる美術館と言うよりはハウス――つまり一軒家であり、なじみ深い外観をしている(マクドナルド氏によれば、地元住民も時々来訪することがあるようだ)。
 
2.
今回はそのAITの提供するプログラム「visit & see」を利用して訪れたため、フェンバーガー・ハウスの最寄駅である佐久平駅からは、マクドナルド氏の車に乗せていただいた。かの「あさま山荘事件」で有名になった浅間山を遠くに眺めながら、360度山に囲まれた平地の景色を行くと、やがてくねくねした複雑な山道に入って行く。木々のあいだに時々現れる民家を確認しながら、ある突き当たりに着いたところで下車すると、秘密の花園への入口といったような緑に囲まれた細道の手前に、一目で手作りとわかるかわいらしい小さな看板が出ている。フェンバーガー・ハウスに着いた。
見た目は完全に民家であるので、建物の入り口もガチャリと扉を開けるタイプの玄関である。なんとなく「お邪魔します」といった文句が口を突いて出る。はじめて訪問する家に上がる時はいつだって期待と緊張でそわそわするものであるが、そうした落ち着かなさを抱えながら奥へ進むと、DJブースになっているカウンターの奥に視界が開けた。1階から2階までを吹き抜ける高い天井と、広いリビングルーム。軽く20畳以上はあるだろう。周囲の壁には小型~中型の作品と思しきものが掛けてある。思しき、と言ったのは、ぱっと目に入ってきたものが、タペストリーや刺繍といった民芸品の類に近かったからだ。
 
3.
この日フェンバーガー・ハウスで催されていた展覧会のタイトルは「宇宙意識美術館展」である。まったく胡散臭いタイトルであるが、私はなぜこれを胡散臭いと感じるかをまず論じなければならない。
要するに、私は、近代化された自我の目線から物事の正統性や妥当性を図ろうとしているのだろう。「宇宙」や「意識」には詩的、あるいは文学的価値を見出すことはできるかもしれないが、検証範囲を特定することができず、反証可能性も無い。だから「宇宙意識」などはオカルトだと捉えている。
ところが、そうした考えには、穴がある。まず検証範囲や反証可能性という点については、あらゆる物事を1や全体として捉えることの不可能性を証明してきたのが現代の科学であるとも言える点で、特定できない部分が必ず出てくることが逆説的に証明されているはずだからだ。たとえば昨今の脳科学においても、脳のほとんどはノイズで構成されており、その詳細は明らかにすることができないとされている。またこれらを経験則の点で捉えるのであれば、「宇宙」に関しては、空を見上げれば広がっている。天文学や物理学が地球と宇宙との関係を考える中で発達してきたことは自明であり、たとえば今は何月何日何時何分で……といった暦や時間軸も宇宙を対象とした研究と関連するし、また天気や季節も地球と宇宙との関係によって大きく左右されている。結局のところ、「宇宙」も「意識」も、語れない部分と語れる部分のどちらも含んでいるということだ。
なぜ私がこうした回りくどい一人二役を演じなければならないかと言うと、私の中にも外にも、何通りもの考え方が混在しているからである。あらゆる近代化された社会装置は、これらの乱立した思考が延々と甲乙をつけられないでいる試合をどこかしらの段階で諦め、とりあえずの定義に則ってとりあえずのルールを設けなければ、破綻を来してしまう。「宇宙」も「意識」も、価値判定のための試合がいつまでも終わらないが故に、そうしたルール設定を揺るがすアナーキズムの性質を孕んでいる。私はアナーキストではない、なぜならば労働と貨幣の交換によって成り立つ資本主義経済のルール上で既に生計を立てることに成功しているはずだからだ。「宇宙」も「意識」も、「宇宙意識」などは特に、私の成功に無関係であるどころか、私の成功を脅かそうとしている。だから私はこれらを「胡散臭い」と一蹴したいのだろう。
 
4.
そういった点から見ると、「宇宙意識美術館展」は非常に困った展覧会である。大学では宗教学を、大学院では美術理論を学んでいたというマクドナルド氏がフェンバーガー・ハウスで扱っていたのは、「逸脱の美術史」であったからである。1階のリビングルームには宗教美術ともお土産品ともつかない装飾品、複製品、アウトサイダー・アートやマクドナルド氏の家族が描いた絵などがリズム良く並び、来訪者を歓迎する家庭の風景がある。続く小上がりの和室には、視覚次元を拡張するような現代美術や、美術史から消された作家による絵画などが、発見されることを待つように潜む。2階の廊下には、オウム真理教の起こした地下鉄サリン事件のルポ写真が、まるで家族写真を飾るかのように堂々と現れ、その奥に位置する部屋には、サイケデリック・アートやアーティストたちが築いてきたコミューンについての資料が、資料館のように淡々と展示されている(なお1階には特別展示室なる小部屋があり、カリブ海地域のアートについて触れられていたようだが、勿体ないことに見るのを忘れてきてしまった)。
これらはすべてマクドナルド氏によって詳細に解説されたが、中でも特に印象深かったのは、宗教美術である。と言っても、キリスト教絵画のことではない。シャーマニズムにおける儀式に際して作られもので、最初に部屋に入ってきたときに目についたタペストリーのうちの一つがそれだ。どこの国の何という一族であったか失念してしまい本当に面目ないが、その儀式では、特殊な薬草を目に塗布することによって一時的に視覚を滅させ、その状態で「見えた」模様を、視覚が回復した後に編むというものである。これらは60~70年代に流行したLSDによる覚醒状態の経験とともに興隆したサイケデリック・アートと(その表象に違いはあれど表現に至るまでの道程が)酷似しており、どちらも異世界との交わりの結果を他者へ伝えようとするものである。
ちょうど先日見た千葉市美術館の「1968年 激動の時代展」でもサイケデリック・アートが展示されていたが、公立の美術館でこうした反社会的な文脈を持つサイケデリック・アートが紹介されることに、私はちょっとした矛盾や違和感を覚えた。また部族の宗教美術については、1984年にMoMA(ニューヨーク近代美術館)で開催された「20世紀美術におけるプリミティヴィズム展」に批判が集中したことに代表されるように、原始美術を扱うことは、その「進化」の後に西洋近代美術が見られるといったような差別的・植民地主義的なオリエンタリズムと縁が深いために、展示方法に注意が必要であるようだ。
フェンバーガー・ハウスは私立であり、その姿は民家であるから、薬物の使用によって作られた作品が展示されることに違和感がない。もしも違和感を覚えたとしても、たとえばそれがマクドナルド氏という一個人の好みだと言われれば、納得がいく(というか、納得せざるを得ない、好みは人それぞれなのだから)。また、家の中に家族の描いた絵とともに部族の美術が並べられる風景は、海外旅行好きな家庭と何ら変わりもない日常の風景である。この「美術館」が私設でありハウスである必要性は、ここにあるのではないか。公立の美術館が代表するような西洋近代美術史の枠組みから離れた展示を可能にするひとつのトリガーとして、プライベート空間が必要なのである。

5.
マクドナルド氏による手作りのスパイシーカレーにイギリス式チャツネを添えた絶品の昼食を終えると、瞑想の時間である。部屋を暗くし、マクドナルド氏のDJを聴きながら、体を横にする。壁にはマクドナルド氏の準備した映像が投影される。抽象的な動画から作品画像まで様々なイメージがまだらになって、心地よい電子音楽の波とともに空間を満たしていく。当然、寝る。せっかく東京から長野まで来ているのだから頑張って吸収しようと思い途中までは起きているのだが、まあ早朝に起床してかつ満腹状態でこのような環境に置かれては、眠りに落ちる。音楽が止んだとき、つまり瞑想の時間が終わったとき、からだがふと環境の変化に気づいたのか、自然と目が覚めた。
ここで少し興味深いことが起きた。私は確かに映像のなかでフリーダ・カーロの絵が映し出されたのを見たのだが、マクドナルド氏は映していないと言うのである。映像を作ったのはマクドナルド氏であるから、当然彼の言うことのほうが正しいわけであるが、ではなぜ私はフリーダ・カーロを見たと思っているのか、それもマクドナルド氏の作った映像というフォーマットに完全に即したイメージで。ちなみにフェンバーガー・ハウスにフリーダ・カーロ作品は扱われていない。
もちろんそれは単なる夢で、たとえば以前横浜美術館で見た森村泰昌がフリーダ・カーロを模した写真の記憶が引き出されただけというのが妥当な心当たりだ。なお、フリーダ・カーロがシュルレアリスムや民族芸術との関連が深いメキシコ人で、身体的苦痛が伴うことの多い生涯を送った女性であり、西洋近代美術史から見ればアウトサイダー的な存在の画家であるとはいえ、私は彼女と「宇宙意識美術館展」を紐づけたいのではない。問題は、私が(夢で)フリーダ・カーロを見たことが、「宇宙意識美術館展」の鑑賞体験であると言えるか、という点である。

6.
 この「宇宙意識美術館展」のツアーに瞑想の時間が含まれていることが、先述したフェンバーガー・ハウスの特性としての「プライベート性」を高めるひとつの仕掛けとなっている。鑑賞体験は人それぞれであり、たとえ瞑想が無くても体験自体は固有のものであるが、今回のことで言えば、瞑想を通したために、鑑賞体験がより個的なものとして立ち現われてしまったのだ。と言うのも、参加者は私を含め3名いたが、私以外の者はフリーダ・カーロのイメージを見なかった。私の見た夢は――当然のことではあるが――他者には共有されなかったのである。
 通常の美術展においては、「鑑賞」の視覚的対象は共有され、「体験」の部分は共有されない。たとえば複数人で見るために同じピカソの絵が提示されても、そのピカソの絵のどこを見て何を思ったかは人それぞれである、といったふうに。しかし、この日のフェンバーガー・ハウスのツアーでは、個人差のある「体験」の部分にも視覚的対象性が生じてしまったがために、「体験」が「鑑賞」領域に一部浸食したのである。そのため私が他の2名と共有できなかったのは「体験」であるとは断言できない、「鑑賞」すら共有できない部分があったのだから。
この夢が「鑑賞」ですらなかったかもしれないという揺らぎが、私を展覧会会場に置き去りにする。私の見たフリーダ・カーロは、誰にも共有されないまま、「鑑賞」対象未満のものとして、未だに展覧会会場に漂う呪縛霊のようである。それはシャーマニズムやLSDによって獲得された視覚体験と同様、私が今こうして文章を書くように副次的にその内容を表現しなければ他者と共有できない次元に、不確かな状態で漂っている。そして、同時に、私は副次的に表現するためにその内容を知り得たのではない。夢は、突如として、私の了解を得ずに、やや暴力的に放たれた。その受動性ゆえ、今回の夢の来訪のことを私は自己の(危険な)解放とは思わない、むしろ自己からのイメージの解放、あるいは自己から略奪されたイメージと捉える。
私は自室にいるときよりももっと部屋の奥深くでくつろぐようにしてフェンバーガー・ハウスでまどろんでいた。そのとき、さまざまな対象物が怒涛のように渾然一体となって押し寄せると、動けなくなった私が、未だ言語化されない秘密をはじめて吐露しようとする間もなく、先に秘密のほうが私から出て行った。それが「宇宙意識美術館展」だったのである。