トンネルを掘る者

 

僕の名前はロジャー・マクドナルド。東京で生まれ、日本のパスポートを持っている。母親は日本人で、父親はイギリス人である。イギリスで教育を受け、現在長野県佐久市望月に住み、仕事をしている。

 

 

 

こんな風に、僕が誰であるかということについて書き続けることはできる。僕が言える限り、それらは事実であり、運転免許や住民登録、銀行口座といった公の書類に使われる。そして、その「事実」の全ては、僕をある特定の場所、時代、そして歴史に根付かせる。しかし、僕にとって興味深いのは、これ以上事実を述べられない瞬間だ。何かが僕の主観性と、コミュニケーション能力を越えてしまう瞬間。これは、美術研究に入る前、修士課程で神秘主義と宗教的体験について研究する理由の一つとなった。

 

 

 

先に書いた文章はまた、僕を社会と国家に位置づける。それらは僕に名前、出身地、家系、つまり何かしらの意味を与える。文化に根付かせると言ってもいいだろう。僕を市民にし、法律、ルール、義務、契約といった枠にはめる。しかしながら、変な話だが、僕の心と体は、その意味とは矛盾してしまうことがある。従ったり、合わせないように考えることもできる。僕の体は、服装や踊り、あるいは食べるものの選択を通して、差異を認識する事ができる。芸術、宗教、あるいは極めて変容した意識の状態(自分で起こそうが、そうであるまいが)は、人間が自らを、文化、民族、又は国家との世俗的なつながりを一時的に保留させる方法となってきた。ジュリア・クリステヴァは「魔法、シャーマニズム、秘教、謝肉祭や解読不可能な詩は全て、社会的に有用な言説の限界を強調し、その言説が抑圧するものを証明するーつまり、主体と、コミュニケーションの構造を超越するプロセスである」(『詩的言語の革命』、マーガレット・ウォーラー訳、コロンビア大学出版、1984年)と述べている。クリステヴァは続けて、どのような状況において、そのような断片的な社会的、文化的転移の状態が、実際の社会的、経済的変化や、革命へと移行させるのかについて問う。そのような状態は一体存在するのか?あるいは、社会的秩序と文化は、自らを強化するためにそれを利用しているのか?僕はクリステヴァの文を読みながら、自らの主観性のプロセスや、文化的自己のふちを明かす連結点は何なのかを問うてみる。そこに到達する時、僕はそれに気付くだろうか。

 

 

 

僕の文化的な型枠は、この10年そこそこの間は日本であり、それは僕の主観性に文字通り移植されることを望んでいる。テレビやマスメディア、参加型民主主義、文化的伝統という思想、言葉、共有された慣習やマナーを含む、数々の経路を通じてそれを達成しようとしている。日々の生活では、これらが僕を様々な方法で助けてくれる。仕事をしたり、スーパーに行ったり、学生と話したりする事は、文化を共有しているという感覚を必要とする。ジョークや、歴史的な引合いを理解し、コミュケーションができると信じている。しかし、僕を日本という国家や文化に符合化すると、何か違う事が起きる。僕は大きな国家的な物語や神話、そして民族紛争と様々な侵略の歴史の全てに巻き込まれる。僕に、この神話の機構の一部となることを拒む事はできるのだろうか?実際、この神話的空間の中にあるリアルな生活空間を見てみると、様々な創造的な自己の存在方法がある事が分かる。クラブやカルト、コミューン、コミュニティー集団等。しかし、国民文化の幅広い象徴的秩序は永続的で強力でもある。

 

 

 

僕は、教育、雇用、そして保健制度は、個人が主観性の実験を妨げないように機能するべきだと思う。倫理や法律や規定が、警察や地方行政といった権威によって強化されるのはそのためだ。私たちはバーで一晩中踊ることや、夜に川辺でバーベキューをする事を許されておらず、アルコールやタバコやリポビタンDといった、処方された薬品や興奮剤でしか意識状態を変容することを許されていない。故テレンス・マッケナが言った通り、これらの薬は、大量の安い労働力を必要とする経済システムを作り上げ、支えるためのものだ。あなたはなぜコーヒーやタバコやアルコールが、主要な3つの薬品(ドーピング剤)として正式に認められ、奨励されているか考えたことがあるだろうか。もっと働け、もっといけ、眠るな、飲んで騒げ、そして二日酔いになれ・・・。

 

 

 

これらは文化の中で主観性を超える事が認められた、ごく狭い領域だ。恐らく、宗教的な寺や修行は最も古いものだと言う事ができるだろう。祭りは日本文化の中で残存する強い側面だと言う事ができるだろうが、今や厳しい監視下に置かれている。しかしこのような典型は残り、その記憶を消し去るのは難しいだろう。

 

 

 

僕たちは「文化」が何か一般化された「良いもの」を意味する時代に生きている。それは何を意味する事もできてしまう。文化は町や都市を再生し、ある価値観を生み出すために提案される。この10年間、日本中の地域的なアートプロジェクトにおいて、特にこの傾向は見られてきた。しかし、そこで生み出されている「文化」とは一体何なのだろう?言い換えると、どんな主観性が提案されているのだろう?これは、ゆるやかな共同体としての意識というよりは、個人個人に向けられた問いかけだ。あなたの心と体では何が起こっているのか?一時停止したままではないだろうか?しかし、大抵の近代文化は、主観性の浮遊というものを奨励しない。国家という機構の最も重要な仕事は、個人を様々な社会的組織に集めておいて、あまりバラバラにしないことにある。ここで、ドゥルーズとガタリの著作は、本来は不安定で離脱しやすい主体をマッピングするのに役に立つ。彼らは、主体は退化しているという。個人や集団は、僕たちを構成し、また再構成する、果てしない影響の糸によって縦横に関係している。主体は実験の場であり、彼らが言う、脱領土化する場である。ドゥルーズとガタリは、この状態を、「分裂分析」または「器官なき身体」の一つの状態とする。フェリックス・ガタリは、あまり知られてはいないが、興味深い文章である「機械的ジャンキーズ」で、「機械的な麻薬は、産業社会の主観的安定には欠かせないものだ」と書いている。ガタリは、アメリカ人は社会的秩序を維持するためにこの「ドーピング」を使うプロだとしているが、日本を指しても、「機械が引き起こすハイな状態」に狂っている社会の一つだと言っている。彼は文の最後に、「ドーピングによる主体の形成は、事をもう一度動かすか、弱火でゆっくりと主体を殺してゆく・・・新しい地平線か、虚無かだ」と書いている。主体を一時停止するということは易しいことではない。

 

 

 

スラヴォイ・ジジェクは、「偽の関わりと運動」と、批判的に見せかけることのたやすさについての言葉を残している。これについては、特に今日の美術活動の領域と関連させて考える価値がある。ジジェクは、時には最も破壊的なのは、何もせず、退き、「思考に戻る」ことだと提案している。社会や自己に何が起こっているのかについての深い思考は、確かに、主観性を一時停止し、異なる主体のあり方と実験するための強力な方法だ。行動の形態として、退くということは、前世紀、数々の急進的な思想家たちによって実践されてきた。日本では、20世紀初め、イギリスの社会主義者であり、同性愛者の権利獲得のための運動家として活動した、エドワード・カーペンターに影響を受けた石川三四郎がいる。石川は日本のファシズムから一時的に亡命したのち、日本に戻り、田舎で個人的民主主義を追求した。これらの思想家たちにとっては、国家や国民文化は、支配的な象徴的秩序と他者の創造から退くことによって抵抗するものであった。

 

 

 

この文の締めくくりに、あらゆる主観的、地理学的境界に疑問を投げかけ、脱領域化することを追求した、もう一人の人物であるジョン・ケージを引用したい。非常に政治的であったとは言わないまでも、彼はアナーキストであり、それは彼の作曲、ドローイングや人生そのものに反映されている。

 

 

 

 

 

僕たちに政府はいらない

 

設備が必要なだけだ

 

空気、水、エネルギー

 

移動やコミュニケ−ションの方法

 

食べるものと住処

 

 

 

別々の国々の間に

 

想像上の山脈はいらない

 

 

 

僕たちには、ほんものの山脈を通り抜ける

 

トンネルを作る事ができる